Hermann Gottschewski
2011年夏学期『比較芸術』「ベートーヴェンのピアノソナタとその周辺」
6月30日 「19世紀におけるベートーヴェンソナタの受容と演奏解釈」
ベートーヴェンは前のどの時代にも無かったほど、「作曲家」という人間として、その時代と後世に強い印象を与えた。今週と来週は4番のソナタを中心に、その受容史と解釈史を見て行きたい。19世紀には録音がまだないから、受容史と解釈史のドキュメントとしては主にベートーヴェン、その作品と彼自身や他の演奏者の演奏について書かれた文献と楽譜文献(書き込みのある楽譜、解説付きの出版譜など)がある。同時代や後世の作曲家にベートーヴェンの影響が認められる場合にはそれらの作品も受容史の重要なドキュメントであり、これらは「制作的受容」という音楽学の研究分野で研究されている。しかしこの授業では制作的受容を扱わず、作品の解釈や演奏に直接関係ある文献に話しを限定したい。
今日聴く演奏はAlexander Lonquichが時代のピアノで演奏した録音である。
http://www.youtube.com/watch?v=k8n59oSvBNk&playnext=1&list=PL2C061CB953A7DCF2
1 ベートーヴェン生前の文献
ベートーヴェン自身による「演奏法をテーマとした」文献は先ず楽譜に書いてあるテンポとその変化、ダイナミックス、アーティキュレーション、ペダリングなどについての記号などである。これは当然のことだが、ベートーヴェンの楽譜には同時代やそれ以前の作曲家に比べてそういう記号が非常に多く、ベートーヴェンが自分の作品の演奏法を非常に重要視していたと分かる。また、ベートーヴェン自身が、メトロノームの発明以後、それ以前の作品のテンポを雑誌などに発表した場合もある。また手紙等でベートーヴェンが作品の演奏問題に触れた場合もあるが、必ずしも多くはない。
後は音楽雑誌における演奏会の批評などがあるが、そういう文献が具体的な問題まで言及するのは希である。ベートーヴェンが自作の演奏についての唯一のオーソリティーだったので、他の人が公にそれについて強い意見を述べる事はほとんどなかった。
2 歿後初期の文献
ベートーヴェンが1827年に亡くなり、彼自身の演奏を聴くチャンスが無くなった。また、時間が経つと彼と直接交流があった演奏者の演奏を聴く機会も徐々に減っていた。そしてベートーヴェンによる演奏の記憶を文献に残す必要性が認められた。この歿後直後の文献の特徴は、その著者達がベートーヴェンと長年の交際があり、著者の音楽的な能力よりベートーヴェン自身に演奏への記憶などが重視された。
1838年にはベートーヴェンのボン時代の友人であったFranz Gerhard Wegeler(1765~1828)と、ベートーヴェンがボン時代に作曲を習っていたFranz Anton Riesの息子であり、一時ウィーンでベートーヴェンの弟子となり、ベートーヴェンのアシスタントも務めた作曲家Ferdinand Ries(1784~1838)の両氏による『伝記ノート』(Biographische Notizen)が出版された。そして1840年にベートーヴェンの晩年に彼の手伝いをしていたヴァイオリニストと音楽監督Anton Schindler(1795~1864)の『ベートーヴェンの生涯』が刊行された。(これらの原典をgoogle booksで閲覧することができる。)この三人の思い出話は演奏問題を中心としていないが、演奏問題に触れる場合もある。
1845年ごろにはベートーヴェンの弟子であり、ベートーヴェンの指導の下でかれのピアノ作品の初演をした経歴もあり、多くの作品についてベートーヴェン自身の演奏を忠実に記憶していたと言われるCarl Czerny(1791~1857)が作品500のピアノ教則本の附録として「ベートーヴェンの全てのピアノ作品の正しい演奏について」という二章を含む演奏の解説書を出版した。(これが復刻され、現在も手に入る。日本語訳もあるか?)ツェルニーの解説は分析などをほとんど含まない、具体的且つ実践的な指示に止まる場合が多いが、全ての楽章にツェルニーの記憶によるメトロノーム記号が付いていて、様々な演奏問題について興味深い言及もされている。
3 19世紀半ばの状況
19世紀半ばにはもっとも重要な回想録がすでに出版されていて、それより深い、美学的な解釈や音楽分析の問題、または直接ベートーヴェンと交際がなくても有名な演奏者の意見、そして一時文献に基づく学術的な研究などが多く出版されるようになる。また、楽譜の初版の誤植を訂正するのみならず、一般の愛好家の理解力や時代とともに変わってきていた楽譜の表記法の変化などを考慮した「実用的出版譜」も多く出版されるようになった。
作曲家、評論家と音楽理論家であるAdolf Bernhard Marx(1795~1866)はベートーヴェンの受容史の中に重要な人物である。彼は非常に多くの著書の中にしばしばベートーヴェンの作品や演奏に触れているが、彼のベートーヴェン伝記が有名。ピアノ演奏についてのもっとも重要な著作は『ベートーヴェンのピアノ作品の演奏への導入』(1863)である。マルクスはベートーヴェンの作品の解釈をベートーヴェンの時代、人生、思想などという背景のなかで説明し、演奏問題を形式分析に基づいて行っている。
多くの作曲家や演奏者についての著作を残したWilhelm von Lenz(1809~1883)は1850年代に何冊ものベートーヴェンについての本を出し、その中には一つずつの作品の美学的評価をも行っている。彼は(生まれた年で想像できるように)ベートーヴェンと直接の交際はなかったが、それまでに出版された回想録や公表されたドキュメントを丁寧かつ批判的に読んだ上にベートーヴェンの作品への新しい理解への道を開いた。彼の著作によってベートーヴェンの作品の「初期」「中期」「後期」の分類も定着したと言われている。(ただし彼は最初にその分類を行ったのではない。)彼の一つずつの作品に対しての分析は主観的で、ローマン派的な比喩に溢れているが、具体的でありながらベートーヴェンの全作品の中での意義やより広い音楽史の中の意義を議論する点では「学術的な」音楽評論への傾向が見られないこともない。ただし彼はマルクスの様な、厳密な分析に基づいているアプローチを引用しながら訳にたたないものとして批判している。
4 19世紀後半の「音楽学的な」研究
ベートーヴェンの原資料―特にベートーヴェンが多く残したスケッチ帳―を厳密に分析し、ベートーヴェンの作品の作曲年代や創作プロセスを明らかにした(あるいは以前の思い出話の多くの誤りを訂正した)人物として知られるのはGustav Nottebohm(1817~1882)である。彼はベートーヴェンの有名な作品目録をも作った。その意味でNottebohmは現代の音楽学の先駆者の一人であった。
これからCzerny, Marx, LenzとNottebohmが4番のソナタについて書いたことを比較してみたいと思うが、これは来週の課題になるだろう。文献から切り取った部分をホームページに載せた(全てドイツ語)。
http://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~Gottschewski/history/uu11/0630/Czerny1845.pdf
http://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~Gottschewski/history/uu11/0630/Lenz1860.pdf
http://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~Gottschewski/history/uu11/0630/MarxBiographie1863.pdf
http://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~Gottschewski/history/uu11/0630/MarxAnleitung1863.pdf
http://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~Gottschewski/history/uu11/0630/Nottebohm1887.pdf