Hermann Gottschewski
2011年夏学期『比較芸術』「ベートーヴェンのピアノソナタとその周辺」
6月 9日 楽器と演奏技術の発展――「ピアノ」と「ピアノ音楽」についての歴史的知識
現代のピアノは、ドイツ語では今日一般的に
Klavier 、グランドピアノを Flügel と呼ぶ。
Klavierは昔のスペリングでClavierあるいはClavirと書き、ラテン語のclavis(鍵)に由来する言葉である。18世紀前半までは一般的に鍵盤を指し、例えばオルガンの手鍵盤や足鍵盤の総称として使われた。また18世紀には特にクラヴィコードが「Clavier」と呼ばれていた。
Flügelという言葉は「翼」という意味で、グランドピアノの形を差すが、18世紀では大きいチェンバロも一般的にFlügelと呼ばれていた。つまり今日のドイツ語でピアノを差す二つの単語KlavierとFlügelはベートーヴェンの生まれた18世紀には一方がクラヴィコード、他方がチェンバロを指していた。
弦をハンマーで叩く方式の楽器が15世紀以来すでに作られたが、17世紀以前は普及しなかった。1700年前後に発明されたが、それは18世紀後半になってから徐々に普及した。現代のピアノの直接の祖先と認められるものはイタリアでクリストフォリ(Bartolomeo Cristofori di Francesco, 1655–1731)によって1697以前に発明され、Cimbalo con
piano e forte(ピアノとフォルテ付きのチェンバロ)と名付けられた。この名称は、チェンバロと違って、指の押す力によって音量をコントロールできる可能性によるものである。
1726年のクリストフォリ楽器を聴きましょう!音はまだチェンバロに近い。
http://www.youtube.com/watch?v=e5XRZTJlHzs&feature=related
この名称は後で省略して「ピアノフォルテ」あるいは「フォルテピアノ」、さらに19世紀に「ピアノ」とだけ呼ばれるようになった。ドイツ語でも「ピアノ」という名称が使われることがあるが、その場合にはグランドピアノではなくアップライトのピアノを差すのが多い。ベートーヴェン自身は「フォルテピアノ」あるいは「ピアノフォルテ」というイタリア語の名称をドイツ語化し「ハンマークラヴィア」という名称を普及することに努力したが、結局かれの曲の中に「ハンマークラヴィア・ソナタ」にしかその名称が残らず、ドイツでは「クラヴィア」という名称が普及した。
この楽器は様々な改良を経て18世紀前半にはドイツでも知られる様になったが、一般的に普及しその楽器を考慮して作曲された「ピアノ音楽」が誕生するのは18世紀後半で、遂に18世紀末にもっとも重要な鍵盤楽器となる。それ以前のヨーロッパには鍵盤楽器の多くの種類が存在し、その作り方、普及と応用には地域差も大きかった。つまりベートーヴェンが育った環境は丁度その最終的な普及の時期にあたり、かれの廻りにチェンバロとクラヴィコードもまだ数多く存在していたと思われる。
18世紀の鍵盤楽器の音楽の歴史では特定の楽器を考慮した「パイプオルガン」や「チェンバロ」や「クラヴィコード」や「フォルテピアノ」などのための曲と、基本的にどんな楽器でも弾ける「鍵盤楽器」のための曲を区別しなければならないだろう。しかし、作曲する段階では特定の効果を目指す前者にあたる曲が、普及のために出版の段階で後者に分類された場合も多く、厳密な線を引くのは難しい。特定の楽器の可能性を徹底的に応用した曲でそれぞれの楽器の音楽的な特徴を知ることができる。
1 オルガン音楽の例
オルガンでは鍵盤がパイプから音を出すスイッチの様な役割を果たし、奏者が音の質をコントロールすることは原則として出来ない。しかし「ストップ」を引くことによって一つの鍵盤から弾かれるパイプの数と種類を変えることができる。大きなオルガンには複数の手鍵盤と一つの足鍵盤が付いて、同時に異なる音色の声部を鳴らすことが可能である。大きなオルガンの設置場所は主に教会なので、オルガン音楽には礼拝で応用できる曲が多い。
http://www.youtube.com/watch?v=wXlroaovi3M
(バッハの前奏曲「主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる」BWV 639)
2 チェンバロ音楽の例
チェンバロは弦を弾く方式の楽器で、指で基本的に音質と音量のコントロールはできない。大きいチェンバロにはオルガンと同様に二つの鍵盤と複数のストップが付いているが、全てのストップが弦を弾く方式で機能するのでオルガン程の音色の変化がない。チェンバロは弦を扱った18世紀以前の鍵盤楽器で音量が一番大きく、オーケストラ音楽にも室内音楽にも使われ、宮廷音楽などの代表的な鍵盤楽器でもある。チェンバロ協奏曲等が多く作られた。また二つの鍵盤とストップの方式によって、チェンバロだけでもオーケストラ風の「ソロ(独奏)」と「トゥッティ(全奏)」のコントラストを表現することができる。
例:バッハのフランス序曲(BWV 831)
http://www.youtube.com/watch?v=kxjYEyHGYJk
http://www.youtube.com/watch?v=DTAnzoBHHr4
http://www.youtube.com/watch?v=SUzQB4v9TLM
演奏Christophe Rousset
楽器
Henri Hemsch, Paris 1751, Restored in Paris by Anthony Sidey
and Frédéric Bal.
3 クラヴィコードの例
クラヴィコードはもっとも小さく、方式ももっとも単純な鍵盤楽器で、家庭音楽や練習用の楽器として広く使われた。音が小さいので室内音楽等にはほとんど向いていないが、音が小さいながら微妙な変化が現代のピアノよりも豊富で、特にバッハの息子であるカール・フィリップ・エマヌエル・バッハに好かれた。強弱が可能なので18世紀後半のピアノ音楽でクラヴィコード用の曲とフォルテピアノ用の曲の区別はほとんどできない。フォルテピアノで弾けてクラヴィコードで弾けないものは主に演奏会用の協奏曲(理由:クラヴィコードの音量が小さい)で、逆にクラヴィコードだけで可能な演奏法としてベーブング(Bebung, 一種のヴィブラート)と一部の細かい装飾音が挙げられる。後者を応用した曲は特にC・Ph・E・バッハの作品に見られる。
http://www.youtube.com/watch?v=Km4-Awgtnuc
演奏Ryan Layne
Whitney (C.P.E. Bach: "Farewell" on clavichord)
4 フォルテピアノの音楽の発展
モーツァルトのピアノソナタには後期まで(幾つかの例を除いて)強弱の指示が少なく、チェンバロでの演奏の可能性をも考えていたと考えられる。ただし音量を下げて引かないと左手の伴奏が不快な効果を出す例も多く、やはりフォルテピアノの演奏を優先的に考えていただろう。それに対してC・Ph・E・バッハの楽譜には強弱の指示が非常に多い場合もあるが、それはフォルテピアノよりクラヴィコードでの演奏を前提としている。
フォルテピアノ独特の効果としてはペダルの応用が挙げられる。(比較的に古い楽器では足で踏むペダルより膝で動かすKniehebelが多い。)特にベートーヴェンの時代にはペダルの数と種類がメーカーによって違い、五つか六つのペダルが付いているグランドピアノも少なくない。
ペダルの種類
a)ダンパー・ペダル(sustain pedalとも)、現代のピアノの右のペダル。全ての弦からダンパーを取り払う効果で、ピアノのペダルの中でもっとも重要なもの。ただしこのペダルがピアノ音楽で中心的な役割を果たす様になるのは1800〜1830年ごろで、その発展がベートーヴェンの作品でも観察できる。
b)una cordaペダル(ソフトペダルとも)、ハンマーを横に動かし、ハンマーが叩く弦の数を減らす方式。現代のピアノの左のペダル。ただし現代のピアノでは踏んでも弦の数がuna corda(一弦)まで減らされなく、due corde(二弦)までしか減らされない。ベートーヴェンの時代の一部の楽器では弦の数を徐々にtre corde(三弦)からdue cordeとuna cordaに減らすことができる例もあり、ベートーヴェンが後期の作品にそれを指示している場合もある。
c)moderatorペダル。現代のグランドピアノには付いていないが、ハンマーと弦の間に細い布を入れて音を柔らかくする方式のペダル。その効果を期待している作品はベートーヴェンの時代にはあるが、ベートーヴェンはそれを積極的に扱った例はない。
それ以外に様々な種類のペダルがあったが、ベートーヴェンと大体の「真面目な」作曲家はその応用を音楽的に無意味なものとして否定する傾向がある。この不評によりこれらのペダルが19世紀前半で徐々に無くなった。
19世紀前半にもピアノの技術に様々な改良が起こり、音量が段々大きくなり、家庭用の楽器が徐々に演奏会用にも使われる様になった。それに伴って弦の太さ、ハンマーの大きさ、ケースの強さなどが増加したが、音域も大きくなった。18世紀の鍵盤楽器の音域はほとんど人間の声の範囲に留まり、4オクターヴから5オクターヴが普通であった。ベートーヴェンの初期のソナタがすべて5オクターヴのピアノで演奏可能である。ソナタの中で5オクターヴの音域を積極的に越す最初の曲はop. 53で、初めて6オクターヴの音域を使うのはop. 81aである。後期の作品ではその音域を更に広げて、op. 106では6オクターヴ+四度に至っている。音域の詳細は以下の表を参照。
http://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~Gottschewski/history/uu11/0609/on-iki.pdf
ベートーヴェンをさまざまな時代のピアノで聴きましょう!
ソノタop. 49,2第二楽章
楽器:A. Steinの1790頃の楽器を複製したもの(Steinはアウグスブルクの楽器メーカーで、モーツァルトに高く評価された)音域:FF–f’’’ (5オクターヴ)
演奏:大井浩明
http://www.youtube.com/watch?v=fUZk06FRnWo
ソナタ op. 27,2 第一楽章
楽器:18世紀のピアノを複製したもの(詳細は不明)音域:FF–f’’’ (5オクターヴ)
http://www.youtube.com/watch?v=iUDUmWaus3Q
演奏:Trevor Stephenson
ソナタ op. 27,2 第三楽章
楽器:不明だが、音から判断すればこの曲が作曲された頃に作られたものだろう
http://www.youtube.com/watch?v=ALgqWXyB9mo
演奏:Steven Lubin
変奏曲op. 34
楽器:Anton Walterの1795頃の楽器を複製したもの(Walterはウィーンの楽器メーカーで、モーツァルトとベートヴェンに高く評価された)音域:FF–f’’’ (5オクターヴ)?
演奏:Alejandro Ochoa
http://www.youtube.com/watch?v=DelunP67B2Q
ソナタ op. 57
楽器:Jones Round, 1805 音域:FF–c’’’’, 音域5オクターヴ+五度
演奏:大井浩明
http://www.youtube.com/watch?v=Ep7SS8S_o1Y
ソナタ op. 106
楽器:Conrad Graf, 1824(ベートーヴェン自身も晩年にGrafのピアノを持っていた)音域:CC–f’’’’, 音域6オクターヴ+四度
演奏:Paul Badura-Skoda
http://www.youtube.com/watch?v=NFPQ9LxLw3s
http://www.youtube.com/watch?v=0cRHTS6zMec
http://www.youtube.com/watch?v=WSwJkedy3C4
http://www.youtube.com/watch?v=PpJa400AjfQ
http://www.youtube.com/watch?v=PX2HfXP8mhQ
http://www.youtube.com/watch?v=0F2ys-OY2Bs
バガテル op. 126
楽器: Conrad Graf, 1825
演奏: Jörg Demus
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=RssT3vM754I
(注:youtubeではこの曲が誤って「Presto in Cm, WoO 52」と題付けられている)
交響曲第三番、フランツ・リストによる編曲
楽器: Johann Baptist
Streicher 1846(Streicher社はモータルト時代から存在していたウィーンの有名なピアノメーカーで、アウグスブルクのシュタイン社の親戚に当たる。ベートーヴェンもSteicherの楽器を所有し、高く評価していた。なおJ.B. Streicherはベートーヴェンと親しくしていたJohann Andreas Streicherの息子である。)
演奏:大井浩明
http://www.youtube.com/watch?v=MGrGXL4xC4o
http://www.youtube.com/watch?v=c1nnAuO7oog
ベートーヴェンが所有していたピアノの画像へのリンク
1)Conrad Graf, 1826
右上にクリックするとこの楽器の別の写真が見られる。
2)Thomas Broadwood
3)Sébastien
Érard