東京大学 2019年度 A-セメスター 水曜日5限目
教員名:Hermann Gottschewski
連絡先:gottschewskiアットfusehime.c.u-tokyo.ac.jp
科目名:音楽論
テーマ:西洋音楽の演奏解釈史2-録音時代
授業の概観
この授業は今年度のS-セメスター『比較文化論』(講義題目:西洋音楽の演奏解釈史1-録音以前)の続編で、主に20世紀以後の演奏史を扱う。
西洋音楽の演奏解釈史において、録音技術の開発によって何が変わってきたのだろうか。その変化をいくつかの観点から見ることができる。
まずは聴衆の観点から見れば、演奏者がいなくても音楽を聴くことができる。ただし演奏者がいなくても音楽を聴けるのは録音技術によって初めて可能になった訳でもない。古代や中世でも発明され、近代になってから数多く作られた自動楽器でも、演奏者が居ない音楽の再生が可能であった。また18世紀になってから人の手で弾かれた鍵盤楽器の鍵盤の動きを機械で記録したり(その場合は主に即興の記録が目的であった)、演奏者の個性的なニュアンスを含む名人の演奏を自動楽器で再現したりするようなアプローチが見られる。後者をパイプオルガンで実現したアングラメルが残した史料は18世紀の演奏法を知るのにも重要な文献であるから、この授業ではそこから本題に入ろうと考えている。
19世紀前半に作られた「即興する」自動楽器(Componium)なども、人間の演奏に代わる機械の類に属する。ただし18世紀、19世紀前半においてはこのような機械が普及することなく、様々な議論を呼び起こしたとしても、聴衆の観点から見る音楽文化に大きな影響を与えたとは言い難い。機械によって再生された音楽が聴衆の文化を大きく変えていくのは19世紀後半に発明された録音技術(空気の振動を記録し、それを再生する技術)であり、その普及は20世紀になってからのことである。録音と再生を可能にする記録媒体は初期においては楼観であったが、デジタル技術の普及以前に演奏文化に大きな役割を果たしたのは円盤レコード、トーキー映画と磁気テープ(コンパクトカセットを含む)である。この授業では技術の詳細というよりは、それぞれの制限が演奏文化にどのような影響を及ぼしたのかを考えたい。
ちなみに20世紀前半には録音技術以外の新しいメディアも聴衆の環境に大きな影響を及ぼした。例えば20世紀前半の記録・再生装置としてはピアノロールを再生する自動ピアノがある。その原理から考えればアングラメルの自動オルガンとは基本的に同じものであったが、録音から再生までのプロセスが合理化され、また18世紀後半の音楽文化でマイナーな役割を果たしていたオルガンに対して、20世紀前半の音楽文化で中心的な役割を果たしていたピアノが対象であったことも多くな違いである。ともかくピアノロールには多くの重要なピアニストの演奏記録(厳密には「録音」とは言えない)が残されている。
また、音波を電波に変えて伝達し、演奏の現場と別な環境で同時に再生するラジオが演奏文化の社会的な普及に大きな役割を果たした。
このように録音技術などは優れている演奏を聴く可能性を増やし、同じ演奏を繰り返して聴くこと、他の録音と比べて聴くこと、過去の演奏者の演奏を聴くことなどによって、聴衆の演奏に対しての意識も大きく変わったと考えられる。またそれに伴った音楽評論の変化(録音を対象とする批評など)も誕生した。
また演奏者の観点から見れば、それまで一回限りであった演奏が録音によって残り、楽譜、絵画、文学などと同様に芸術者の「作き出しのために書く詩人」のような態度である。ただし録音された音楽はいきなり創作物として認められた訳ではない。特に演奏者側からは、録音された音楽に対しての抵抗感が20世紀後半まで(あるいは部分的に今日までも)続いていた。録音作品の創作に最適な環境で作られた録音よりも、演奏会でライブ録音されたものの方が価値が高いという考え方が多かった。つまり録音は独立した芸術として中々認められなかった。録音技術が存在しても、演奏の本質はライブパフォーマンスに現れるとされた。従って録音はあくまでも写真のような記録で、ライブで実現できない演奏を録音技術によって創作することは修正された写真と同じように嘘っぽい作り物であり、不正のために芸術の領域から排除すべきだという考え方である。しかし実際には営利目的で作られたクラシック音楽の録音では(商業写真と同様に)こういう「不正」が非常に多く見られる。例えば、通して聴ける録音が通して演奏されたものの記録であるという「幻覚」は、大多数の場合には実際の創作過程とは全く違う。一つの録音作品を数多くの個別な録音からカットしながら合成することはもはや不正ではなく、録音作品の成立過程によって必然的に生じた創作手段である。ただその事実は大多数の消費者には知らされていない。しかし逆に人為的操作の応用を録音技術の手段として認め、その徹底的な応用を隠さず、それによって新しい芸術作品を作ろうとするアプローチも少数ながら存在する。その代表例はピアニスト、グレン・グールドである。彼は晩年ライブ演奏を辞め、自分の演奏を録音作品としてのみ発信することにした。
さらに録音を製造側から録音文化を見れば、レコードのマーケティングやカ販売形態によって、録音された音楽が会社側からどのような作品(または生産物)として見られたかが分かる。演奏者の存在を(生産のプロセスで働く他の専門家とどうように)伏せて作曲家名または作品名のみを中心とする製品もあれば、作品名を二次的なものとし、演奏者の個性を中心にする製品もある。また作曲家や演奏者よりも、新しい録音技術の応用をアピールする製品も存在する。これらの種類は製造者の考え方によって発生するが、同時に需要者の考え方を反映し、またその考え方に影響を与える。つまり金を出して録音媒体を手に入れる消費者は、場合によって作曲家の作品、場合によって演奏者の演奏、場合によって最新の音響を求めているのである。社会が録音をどのような作品(または生産物)と見なしていた(いる)か、それを知るのにはその販売形態を研究するのは有力な方法だと思われる。
録音と再生の技術が発明される以前、ピアノの音を発するのにはピアノが必要だ、歌手の声を発するには歌手が必要だというのは、疑問視もしない事実だったのだろう。つまり「音楽は単に空気の振動である」という考え方は、すでに啓蒙主義の時代から物理学者によって主張されたが、録音技術によって初めて証明されたと言っても過言ではない。つまり音楽の本質は声や楽器ではなく、音響であるという考え方も、録音の時代で初めて可能になったのではなかろうか。21世紀ではさらに事情が変わって、テレビやyoutubeなどで演奏の行動を見ながら録音芸術を楽しむことが多くなったが、純粋なオーディオメディアを中心とする20世紀には演奏が他のどの時代よりも「聴覚的な」芸術と見なされたのではないだろうか。
これらの問題意識をもって、この授業では録音時代の西洋音楽演奏解釈史を概観したと考えている。