東京藝術大学 2019年度 月曜日2限目
   教員名:Hermann Gottschewski
   連絡先:gottschewskiアットfusehime.c.u-tokyo.ac.jp
   科目名:西洋音楽演奏史
   テーマ:西洋音楽の演奏解釈史I-録音以前(夏)、西洋音楽の演奏解釈史II−録音時代(冬)

授業の目的

夏学期のテーマ「西洋音楽の演奏解釈史I−録音以前」では主に19世紀の演奏史を扱う。18世紀以前の演奏者は主に同時代の音楽を演奏した。また、自作自演、即興なども重視され、今日のクラシック音楽の演奏者とはイメージがかなり違っていた。しかし1800年頃から−−音楽文化の中心が教会や宮廷から市民や音楽祭へ移っていくプロセスの中で−−聴衆の「教養」と演奏者の「レパートリー」である音楽的な「古典」(クラシック)が成立する。最初に「古典」として認められたのはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの音楽である。彼らの作品が今日も「古典派」と名付けられていること、また後に同様な社会的構造の中で演奏されてきた、より広いレパートリー全体が「クラシック音楽」と呼ばれるようになったことは、この1800年前後の音楽文化の変化に原因がある。

狭義の「古典派」にしても、広義の「クラシック音楽」にしても、「古典」の作品は日常の文化的環境から切り離された存在である。その点に関しては古典音楽が民俗音楽や大衆音楽と区別される。「古典」となるものは過ぎ去った時代の作品なので、その演奏法が自明でない場合や、音楽形式や美学的背景がただちに理解されない場合がある。つまりその「解釈」が問題になる。

19世紀の市民音楽文化において、古典と見なされた音楽作品では、素人による演奏とプロによる演奏が同等に重視された。

まず素人の場合を考える。録音が存在しない時代なので、素人にしても、作品を知るもっとも重要な情報源は楽譜である。しかし過ぎ去った時代の楽譜を読み解き、作品の性格と正しい演奏法について判断するのには様々な予備知識と経験が必要である。「素人」はそういう知識を十分に持っていないから「素人」である。素人の演奏を重視する社会はその手助けとなる材料を提供しなければならない。従って音楽作品の歴史背景や分析を含む専門家の著作と、歴史的な楽譜を現代風に書き換え、著名な演奏家によって指使いや表情記号などを書き加えられた楽譜が出版される。このような、作曲家側から見て「二次的な」資料の豊富な存在は19世紀の音楽市場の一つの特徴である。これらの資料は演奏研究の貴重な材料となる。つまり録音がない時代ではあるが、このような解説書と楽譜から具体的な演奏法を知ることができる。また、専門家と素人がどういうところを重視し、どの問題に悩んでいたかということも知ることができる。

それに対してプロフェショナルな演奏家は言葉と記号を使わず、演奏を通して作品の解釈を聴衆に伝えることができる。ドイツ語ではクラシック分野の演奏家が一般的に「Interpret」(解釈者)と呼ばれるのはそのためである。演奏者が解釈者、翻訳者、場合によって(「天才」と思われる作曲家を祀る)「司祭」と見なされてきたのは19世紀の古典音楽文化によって生じた一つの文化現象である。また「指揮者」という、演奏解釈において指導的な立場に当たる職業も、19世紀に初めて成立し、今日までクラシック音楽文化を特徴付ける存在である。

19世紀の作曲家と演奏者(ピアニスト・指揮者)として大きな影響力を持っていたフランツ・リストは、音楽文化における「作曲」と「演奏」に同等の創造性があり、同等の価値があると主張した。ただしそれは例外的な見解である。原則的に19世紀の古典音楽の演奏者には「作曲家の指示に従う」義務があるとされた。その状況の中で演奏者の「個性」と「主観」をどのように位置付けるべきかという問題が、著名な演奏者を事例に、特に19世紀後半になってから広く議論された。

冬学期のテーマ「西洋音楽の演奏解釈史II−録音時代」では主に20世紀を扱う。

19世紀末には録音技術が開発された。それにより同一の演奏が繰り返して聴かれるようになり、演奏そのものが演奏者の「作品」として後世に残るようになった。それによって演奏研究者に新しい材料が提供され、研究の方法も変わる。しかしそれより重要なのは、演奏者と聴衆の演奏に対しての意識が変わり、演奏文化そのものが全く違うものになる。19世紀以前の音楽文化では歴史に残る作曲に対して現在にしか存在しない演奏があった。20世紀以後には演奏にも歴史性が認められる。

つまり音楽史を語る歴史資料として、20世紀以後は楽譜や著書に加えて録音・録画がある。このような資料をどのように読み解くか、それは冬学期の主なテーマである。実際の録音や録画と接触しながら、まずは(例えば同じ作曲家の同じ作品を比較しても)複数の「演奏様式」が存在することを確認し、その演奏様式についての理論背景も問題視したい。また、ほぼ同じ演奏様式に属しても、演奏には歴史的変化があることを確認する。

録音メディアとして成立する演奏者の「作品」は「生演奏の記録」に過ぎない場合がある。例えば録音されることを目的としなかったライブパフォーマンスが「傍で」録音され、この録音がその演奏会の記録として販売されたり放送されたりすることがある。ただし20世紀の音楽市場に販売されるクラシック音楽のメディアの中で、そのようなものが占める割合があまり大きくない。

ライブで聴かれることをそもそも想定せず、最初から「再生されるメディア」として世に現れることを考えて、この条件でしか実現できない独特な可能性を表向きに取り入れた演奏作品もある。ただしそういう作品も20世紀以後のクラシック音楽メディアの中で大きな割合を占めていない。

大多数のクラシック録音はこの両方の極端の間に存在する。つまり「基本的にライブの場で可能な演奏」ではあるが、実際にはライブのレコーディングで不可能な技術的な可能性を使い、「厳密に言えばライブの場で不可能な演奏」になっている。

20世紀以後、演奏作品によって成立する新しい意味での「音楽史(演奏史)」を語るときに録音そのものの技術背景と、録音に対して社会の変わってくる態度などを考えるのが極めて重要だが、それと別に録音メディアのパラテクスト(表紙画像、解説等)と販売に関わる条件と環境の変化も見なければならない。

この授業ではそれらすべての観点に触れたいと思うが、もっとも中心的に行いたいのは演奏作品の音響的内容(コンピューターの中で「サウンドファイル」として現れるもの)の分析である。録音そのものが1900年前後から存在するにもかかわらず、それを厳密に分析することは、サウンドファイルをプロセスすることができるコンピューターがあって初めて可能になった。こんにちになって、学生が常に手に持つパソコンと簡単なソフトウェアでも、録音の高度な分析が可能である。その方法を学び、学生が実際に録音の分析を行うことはこの授業の目的の一つである。

録音された演奏のメディアがレコード・ラジオ・CDから、インターネットでストリーミングまたはダウンロードされるファイルに変わってきた今日には。演奏文化に新たな大きな変化が起こっている。この変化をさまざまな観点から評価できるが、演奏が多くの場合動画とともに聴衆に届けられるようになったことに注目したい。私が「録音時代」と呼ぶ20世紀には、演奏が純粋に耳で鑑賞され、それに(例えば演奏会、テレビ配信などで)目に見える部分が加わったとしても、それが演奏の評価には関わらないという考え方があったと思われる。音楽は主に耳で鑑賞されるものだという感変え方自体は当然ながら19世紀以前にもあり、今日にも変わっていない。しかし演奏が本当に空気の振動としてのみ届けられるという現象は、20世紀後半を中心とし、それ以前にもそれ以後にもあまり見られない、「録音の時代」を特徴づける事情だと思われる。従って今日になって演奏のヴィジュアルな面を再評価し、その面を含めた演奏分析方法を開発することは21世紀の演奏研究の一つの課題だと思う。この最後の観点にもこの授業で多少触れたいと思う。