東京外国語大学 2013年度秋学期 金曜日5限目
教員名:Hermann Gottschewski
連絡先:gottschewskiアットfusehime.c.u-tokyo.ac.jp
科目名:総合文化研究入門A
テーマ:西洋音楽の文化史―ドイツの音楽を中心に
第5回(2013/11/15)
注:今回の資料では「基礎知識」として規定されているパラグラフがなく、その替わりに試験に出てきそうな内容を下線部で示した。
L.v.ベートーフェンと19世紀前半の音楽(作曲家論を中心に)
ベートーフェンは前のどの時代にも無かったほど、「作曲家」という人間として、その時代と後世に強い印象を与えた。今回は主にその受容史と解釈史を、19世紀を中心に、見て行きたい。19世紀には録音がまだないから、受容史と解釈史のドキュメントとしては主にベートーフェン、その作品と彼自身や他の演奏者の演奏について書かれた文献と楽譜文献(書き込みのある楽譜、解説付きの出版譜など)がある。同時代や後世の作曲家にベートーフェンの影響が認められる場合にはそれらの作品も受容史の重要なドキュメントであり、これらは「制作的受容」という音楽学の研究分野で研究されている。しかしこの授業では制作的受容を扱わず、ベートーフェンの作品の解釈や演奏に直接関係ある文献に話しを限定したい。今回作品として取り上げるのは4番のピアノソナタ(作品7)である。
今日聴く演奏はAlexander Lonquichが時代のピアノで演奏した録音である。
http://www.youtube.com/watch?v=k8n59oSvBNk&playnext=1&list=PL2C061CB953A7DCF2
楽譜: http://imslp.org/wiki/Piano_Sonata_No.4,_Op.7_(Beethoven,_Ludwig_van)
1 ベートーフェン生前の文献
ベートーフェン自身による「演奏法をテーマとした」文献は先ず楽譜に書いてあるテンポとその変化、ダイナミクス、アーティキュレーション、ペダリングなどについての記号などである。これは当然のことだが、ベートーフェンの楽譜には同時代やそれ以前の作曲家に比べてそういう記号が非常に多く、ベートーフェンが自分の作品の演奏法を非常に重要視していたと分かる。また、ベートーフェン自身が、メトロノームの発明以後、それ以前の作品のテンポを雑誌などに発表した場合もある。また手紙等でベートーフェンが作品の演奏問題に触れた場合もあるが、必ずしも多くはない。
後は音楽雑誌における演奏会の批評などがあるが、そういう文献が具体的な問題まで言及するのは希である。ベートーフェンが自作の演奏についての唯一のオーソリティーだったので、他の人が公にそれについて強い意見を述べる事はほとんどなかった。
2 没後初期の文献
ベートーフェンが1827年に亡くなり、彼自身の演奏を聴くチャンスが無くなった。また、時間が経つと彼と直接交流があった演奏者の演奏を聴く機会も徐々に減っていた。そしてベートーフェンによる演奏の記憶を文献に残す必要性が認められた。この没後直後の文献の特徴は、その著者達がベートーフェンと長年の交際があり、著者の音楽的な能力よりベートーフェン自身の演奏への記憶などが重視された点である。
1838年にはベートーフェンのボン時代の友人であったFranz Gerhard Wegeler(1765~1828)と、ベートーフェンがボン時代に作曲を習っていたFranz Anton Riesの息子であり、一時ウィーンでベートーフェンの弟子となり、ベートーフェンのアシスタントも務めた作曲家Ferdinand Ries(1784~1838)の両氏による『伝記ノート』(Biographische Notizen)が出版された。そして1840年にベートーフェンの晩年に彼の手伝いをしていたヴァイオリニストおよび音楽監督Anton Schindler(1795~1864)の『ベートーフェンの生涯』が刊行された。(これらの原典をgoogle booksで閲覧することができる。)この三人の思い出話は演奏問題を中心としていないが、演奏問題に触れる場合もある。
1845年ごろにはベートーフェンの弟子であり、ベートーフェンの指導の下でかれのピアノ作品の初演をした経歴もあり、多くの作品についてベートーフェン自身の演奏を忠実に記憶していたと言われるCarl Czerny(1791~1857)が作品500のピアノ教則本の附録として「ベートーフェンの全てのピアノ作品の正しい演奏について」という二章を含む演奏の解説書を出版した。(これは復刻され、現在も手に入る。日本語訳もあるか?)ツェルニーの解説は分析などをほとんど含まない、具体的且つ実践的な指示にとどまる場合が多いが、全ての楽章にツェルニーの記憶によるメトロノーム記号が付いていて、様々な演奏問題について興味深い言及もされている。
3 19世紀半ばの状況
19世紀半ばにはもっとも重要な回想録がすでに出版されたが、一方でそれより深い、美学的な解釈や音楽分析の問題、または直接ベートーフェンと交際がなくても有名な演奏者の意見、そして一時文献に基づく学術的な研究などが多く出版されるようになる。また、楽譜の初版の誤植を訂正するのみならず、一般の愛好家の理解力や時代とともに変わってきていた楽譜の表記法の変化などを考慮した「実用的出版譜」も多く出版されるようになった。
作曲家、評論家および音楽理論家であるAdolf Bernhard Marx(1795~1866)はベートーフェンの受容史の中で重要な人物である。彼は非常に多くの著書の中でしばしばベートーフェンの作品や演奏に触れているが、彼のベートーフェン伝記が有名である。ピアノ演奏についてのもっとも重要な著作は『ベートーフェンのピアノ作品の演奏への導入』(1863)である。マルクスはベートーフェンの作品の解釈をベートーフェンの時代、人生、思想などという背景のなかで説明し、演奏問題を形式分析に基づいて扱っている。
多くの作曲家や演奏者についての著作を残したWilhelm von Lenz(1809~1883)は1850年代に何冊ものベートーフェンについての本を出し、その中には一つずつの作品の美学的評価をも行っている。彼は(生まれた年で想像できるように)ベートーフェンと直接の交際はなかったが、それまでに出版された回想録や公表されたドキュメントを丁寧かつ批判的に読んだ上でベートーフェンの作品への新しい理解の道を開いた。彼の著作によってベートーフェンの作品の「初期」「中期」「後期」の分類も定着したと言われている。(ただし彼は最初にその分類を行ったのではない。)彼の一つずつの作品に対しての分析は主観的で、ロマン派的な比喩に溢れているが、具体的でありながらベートーフェンの全作品の中での意義やより広い音楽史の中の意義を議論する点では「学術的な」音楽評論への傾向が見られないこともない。ただし彼はマルクスの様な、厳密な分析に基づいているアプローチを引用しながら役にたたないものとして批判している。
4 19世紀後半の「音楽学的な」研究
ベートーフェンの原資料―特にベートーフェンが多く残したスケッチ帳―を厳密に分析し、ベートーフェンの作品の作曲年代や創作プロセスを明らかにした(あるいは以前の思い出話の多くの誤りを訂正した)人物として知られるのはGustav Nottebohm(1817~1882)である。彼はベートーフェンの有名な作品目録をも作った。その意味でNottebohmは現代の音楽学の先駆者の一人であった。
これからCzerny, Marx, LenzとNottebohmが4番のソナタについて書いたことを比較してみたい。
カール・ツェルニー(1791–1857)のピアノ教本第四巻(作品500、1845年[1])
Carl Czerny: Die
Kunst der Vortrags der älteren und neueren Clavierkompositionen
oder: Die Fortschritte bis zur neuesten Zeit. Supplement (oder 4ter Theil) zur grossen
Pianoforte-Schule von Carl Czerny. Op. 500, 2tes Capitel:
Über den richtigen Vortrag der sämmtlichen Beethoven’schen Werke für das Piano allein. S. 41(作品7の第4楽章について)
http://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~Gottschewski/history/uu11/0630/Czerny1845.pdf
この魅力的な主題は感情を込めて弾くべきだが、しかしフェルマータの直前の1小節以外にはリタルダンドをかけない。
嵐のような中間部(ハ短調)は右手に次の運指でしか弾けない走句を含む。
...
ある程度練習してから、この走句がこの運指でレガートでも演奏できること、そしてこの方法でしか最高音のsfを表現することができないことに気がつくだろう。ちなみにこの中間部全体(主題の再現まで)を少し速く演奏することができる。
次のところ
...
最初の5小節ではバスを(あたかも一種の対旋律のように)とても重々しくレガティッスィモで弾かなければならない。最後の小節のHの音とぴったり同時にペダルを踏んで、それを2小節半しっかりと踏みっぱなしにしなければならない。この驚くべき転調ではuna cordaも応用できる。ロンドの最後のところをとても軽く、徐々にさらに和やかに、静かにぼかすように、最後の4小節はペダルを取って。
アドルフ・ベルンハルト・マルクス(1795–1866)のベートーフェン伝記(1863年)
Adolf Bernhard Marx: Ludwig
van Beethoven: Leben und Schaffen. Zweite Auflage, Erster Teil. Berlin:
Otto Janke, 1863. S. 154 und 157:
http://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~Gottschewski/history/uu11/0630/MarxBiographie1863.pdf
(S. 154:) 次の年、1798年に作品7のソナタが現れ、それが私たちが持っている全ての作品の中にもっとも精巧な音の構築物の一つである。この作品は暗い経験に少しも影響されていない。もしあるとしたら第4楽章にあるかもしれない。
... (S. 157第四楽章について)
ただ最初の新鮮さは戻って来ない。柔らかく溶けたようなロンドが最初から一楽章の生意気な勇気について釈明するように、またラルゴの天上的な高みから頭を下げて降りるように見える。この楽章はいくら魅力的に、いくら涙ぐましく話すとしても、私たちは一楽章と二楽章にこの様な(三楽章から始まり、フィナーレで完成する)終わり方の必要性を見出すことができない。何が私たちの詩人(ベートーフェン)をこの様な結末に導いたのだろうか。
同マルクスの「ベートーフェンのピアノ作品の演奏への導入」(1863年)
Adolf Bernhard Marx: Anleitung
zum Vortrag Beethovenscher Klavierwerke. Berlin: Otto Janke, 1863
http://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~Gottschewski/history/uu11/0630/MarxAnleitung1863.pdf
上記の引用にも分かるように、マルクスはこのソナタの第四楽章を高く評価しなかった。ソナタで彼がもっとも高く評価しているところは「ソナタ形式」の構成であるから、このソナタに関しての演奏のコメントも第一楽章については三ページに渡り、第二楽章について一段落、第三楽章について一つのコメント、第四楽章については全く言及していない。第一楽章についてのコメントではそれぞれの箇所のソナタ形式上の機能が分析されている。
(S. 99) このソナタの第一楽章には七つの主要な要素(Moment)があり、それらの始まりを以下で示し
(A, C[2],
D, E, F, G, H、譜例省略)
[S. 100] それぞれを文字で記した。Aは主楽節、C, D, Eはそれぞれ副楽節、F, G, Hはそれぞれ終楽節である—あるいはE[?]またはFとGも副楽節だと言えるかもしれない—しかしそれは重要な疑問点ではない。しかしこの七つで曲の内容が十分に説明されたとはいえない。なぜなら複数の節(要素)がほとんど自立した発想というべき重要な発展と変化を被るからである。(ここで七つとして取り上げたのは)ただ豊富な形態の中に迷子にならないためである。
楽章全体で活発で輝かしい生がほとばしって、「Allegro
molto con brio」というテンポが全体から見てまさに適切だが、数多くの節とその発展の中ではいろいろと変わらなければならないだろう。ここには拍子の自由(Taktfreiheit)と適度、ことに様々な段階的な速度の融合について考えるきっかけとなるものを多く見つけることができる。
ヴィルヘルム・フォン・レンツ(1809–1883)「ベートーフェン。芸術についての研究」
Wilhelm von Lenz: Beethoven.
Eine Kunststudie. Dritter Teil, erste Abteilung, erster Teil. Zweite
Auflage, Hamburg: Hoffmann und Campe 1860
http://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~Gottschewski/history/uu11/0630/Lenz1860.pdf
[S. 76] このソナタは多分ベートーフェンの初期におけるもっとも美しいソロソナタだろう、少なくともベートーフェン全作品で比較的に奥深いものの一つ。しかしAllegro
molto con brio(第一楽章)はハイドンとモーツァルトの模範を越える事はない。
(中略)
[S. 77] これら(ハイドンやモーツァルトなど)の例を見ればこの6/8拍子の第一楽章はベートーフェンの他のソナタと同様に非常に格調が高いものだと思われるかもしれない。しかしそれは違う。ベートーフェンの基準ではこの楽章は大した作品ではない。ほとんどつかみどころのないモチーフ(ベートーフェンではさらに希)の労作は巧みの手によるものだからマルクスはそれを技術的に分析した。(中略)しかし第一楽章が天才的なひらめきに欠けるとは決して言えない(25, 51,
59小節の素晴らしく導入されたメロディーなど)。
これで分かるようにレンツはマルクスと違ってこの楽章の古典的な形式を長所としてではなく短所と捉え、この一楽章を高く評価しなかった。彼は逆にこのソナタの他の楽章を高く評価したのである。この対照的な評価には19世紀の音楽形式への評価の変化が反映し、Marxより14歳若いLenzがより「進歩的な」考え方をしていたことがあらわれている。
グスタフ・ノッテボーム(1817–1882)「ベートーフェンに関する論文集」(1882/7)
Gustav Nottebohm: Beethoveniana
(1872) と Zweite Beethoveniana (1887): „Der dritte Satz der
Sonate in Es-dur Op. 7“ (Zweite Beethoveniana S. 508–512)
http://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~Gottschewski/history/uu11/0630/Nottebohm1887.pdf
[S. 508] ソナタ変ホ長調作品7の第三楽章は、一括ではなく、部分ごとに徐々に作曲された多くの曲の一つである。これは一枚(四ページ)のスケッチで観察することができる。このスケッチには明らかに別のところで始まった作品の継続もあり、その一ページ目にこの(第三)楽章の様々な部分に属する切り離された断片が混ぜこぜに散らばっている。(注 この一枚はBritish
Museumに保存されている)この発展段階の断片性を、全てがスムーズに流れるように見える印刷された作品の中には全く発見することができないだろう。後になって初めてより大きなスケッチがいくつか現れ、そこには以前の断片がまとめられている。その一つ(そこには+で示したヴァリアンテもある)に従えば
(譜例省略)
[S. 510] 主楽節の第二部が元々、今の作品に比べて四度低く始まるように計画されていた。
(中略)
[S. 511] この一枚が作品7の他の楽章のスケッチを全く含まないので、この楽章は元々上記のバガテレとして考えられ、後でソナタの一部となったと考えられる。